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『起信論』の二障に於ける慧遠と元曉

A. Charles Muller


Table of Contents

1. 二障の枠組み
2. 元暁と『二障義』
3. 慧遠の二礙説
4. その後の東ア ジ ア の歴史の二障・ 二礙

1. 二障の枠組み

二障は、互いに並列的な意味において、唯識系のテ キ ス ト の中では比較的同一である。 これは二障が二乗の道とは対照的に、菩薩の道に関する説明において基本的な役割を有しているからである。煩悩障と所知障は、それぞれ精神的混乱に対する広い分類の総称である。各障には、様々な顕現がある。 例えば、各障には、潜在している(無意識な)局面と同様に、活動的(意識的)な局面がある。 そして、それぞれの二障は、潜在的また活発な顕現が、抑制あるいは排除された後、各障の習気(vāsanā)の形で存続できる。そして、小乗と大乗によって二障とが明確に区別されているにもかかわらず、二障の解釈の研究をより深く続けていくと、研究者は、おそらく二障の間に何らかの重複領域があるのではないかと思い始めるであろう。 実際、重複領域が存在するのである。

二障に関する簡潔な標準定義では、煩悩障は必ず二乗の修行者の修行対象であって、そして所知障は菩薩の特別な課題であると説明されるが、二障のより完全な分析を進めると、二障を容易に区分化することを許容しない様々な注釈があることがわかる。 たとえば、元暁は次のように言う。

所知障中有斷不斷。惠解脫人都無所斷。倶解脫者分有所斷。謂八解脫障不染無知修八勝解所對治故。如瑜伽說。 「又、諸解脫由所知障解脫所顯。由是聲聞及獨覺等於所知障心得解脫故。。」 1

さらに、二障の構成の詳説は、意識の構成と操作に関する特定のテ キ ス ト の見解に関連づけられる。

もちろん、二乗の修行者が認識的な問題に全く取り組まないことは有り得ず、また逆に、菩薩が苦痛をもたらす煩悩の問題に対処しないことは有り得ない。重要なのは、菩薩は自分の汚れたカ ル マ の条件付けをもちろん克服していなければならないが、さらに、彼らは、かなり初期の段階で、凡夫の衆生を教化する仕事を妨げる認識の不明瞭性を修正し始めなければならないのである。声聞と独覚の人は、他人の苦痛の除去ではなく自己の苦悩の滅除に関心がある傾向があり、その結果、他人を教えるのに必要な方便知恵を発展させるための動機が菩薩より不足している。また、常識的レ ベ ル においてでさえ、情緒的な不均衡が認識の明快さに影響を及ぼすことは明白である。例えば、『成唯識論』は以下の様に論ずる:

所知障亦障涅槃。如何但說菩提障。說煩惱但障涅槃。豈彼不能障菩提。應知聖教依勝用說理。實倶能通障二果。(T 1585.31.56a3-6)

更に、個々の心所のレ ベ ル では、唯識の法の図表にリ ス ト された苦悩のうちには、認識面で妨げとなる、そして同時に感覚面で妨げとなる煩悩がある。例えば末那識の四惑は皆そうであるが、代表的で、そして最も微細なものは「我慢」(asmimāna)である。煩悩障と所知障の両方の様々なタ イ プ を排除するために、その手段と可能性を明確に定義しようとすることも、また困難である。なぜなら、これは通常その惑が、どれくらいの深い意識の層に存存するか、という考えによるからである。

上に説明したのは、まさに二障説の概要にすぎない。それは、単に包括的で首尾一貫した体系を確立することに役立つ広範囲な複雑性に関する小さな手がかりを提供するだけである。更に、これまでの概説は、1種類の体系の表面を触れたにすぎない。それは、玄奘と基の東ア ジ ア の法相宗に影響を及ぼした無著・ 世親の流れの唯識系經論から推定できる体系である。これとは異なる他の二障の体系がある。そのうちの1つは東ア ジ ア の仏教のいくつかの形式に結果的に大きな影響を及ぼしている。


2. 元暁と『二障義』

『二障義』は、元暁が『大乗起信論』に対して2部の有名 な注釈を著作する間に行った研究結果の頂点を示す著作である。筆者が最近の 論文で詳細に説明したように、2 元暁は、『起信論』 に含まれる二障説の簡潔な、しかし、重要な議論に正確に対処しようして二障 の説を徹底的に調べ始めた。玄奘の翻訳によって利用可能になったばかりの唯 識系の経論に見られる二障説と、『起信論』に見られる二障説の根本的相違に ついて気づき、元暁は二障の徹底的な研究をするうえで刺激されたのである。

『二障義』は煩悩と知性に関連する問題を調べ、比較し、選別し、会通するという点で信じがたいほど徹底的な論文である。まず最初に、元曉は、他に見られないようなやり方で二障の唯識説を調査し、広範囲な問題を発見して対処する。他の者との主な相違点は、様々な学僧たちが意識の8つの領域の構成に関して理解していた方法、および二障がそれぞれ心の領域にいかに深く影響し、または存在するかという点に見出される。元暁はさらに、強さ、微妙さ、および粗雑さといった、目眩がするほどの膨大な配列の中で二障を分析している。この後、元暁は様々な唯識の修行段階、対治を通して、様々な修行者による二障の除去の複雑さに関して調査を進める。元暁は、『解深密経』や、『瑜伽論』や、『中辺分別論』などの基本的な唯識経典、そして他の40冊ほどの経論から引用しつつ、彼の結論を立証している。

唯識体系における二障の構造を明確にした後、元暁は『起信論』の中で説明されている、著しく異なった二障説に対応する。 『起信論』の二障(『起信論』では、それらは「二礙」と呼ばれる)は、同論の基本的な理論上の枠組みにおける不可欠な部分である。その枠組みは本覚/始覚、無始無明と同様に、苦悩への下降と9つの進行的なレ ベ ル を通してカ ル マ を生ずることを含む。この下降は心の最初の動きで開始される。『起信論』の煩悩礙は、標準の唯識テ キ ス ト のように薩迦耶見から起こる六煩悩に基づくとされるのでなく、「根本無明」、または「不覚」と呼ばれ、これらは「心の最初の動き」と定義される。衆生は「一心」と等しい真如の静寂で単一の本質を認識しない結果で、(1) この無明によって、心が有爲的に動き[無明業], 急下降を始める: (2) 主観的な感知器の意識 [能見] と(3) 客観世界 [境界], (4) 精神的な区別 [智], (5) 連続性 [相続], (6) 執着 [執取], (7) 言葉の定義 [計名字], (8) カ ル マ を作り出すこと [起業], そして、結果, (9) 苦痛と輪廻 [業繫苦]である。これは、『起信論』の煩悩礙の出発点が、唯識のように自我の間違った具体化とするのでなく、むしろ真如を知覚できないことと定義されていることを意味する。したがって、先に説明した唯識体系の枠組みで見れば、煩悩礙は実際には情緒面での苦悩より認識面での不明瞭さに似ている。

『起信論』の智礙は始覚の機能を曖昧にする機能と定義され、世界の事象を正確に区別できないことを含意する。『起信論』の二礙は唯識の二障と全く無関係だと言うことはできないが、不覚対始覚の心の構造および機能によって基礎的な説明がなされる仕方はかなり異なっている。明確にこれらの2つの異なるア プ ロ ー チ を区別した後、元暁は唯識のア プ ロ ー チ を「顕了門」とし、『起信論』のア プ ロ ー チ を「隠密門」として名付けて分類する。これは、彼が説明するように、後者が前者を包括するからである。唯識体系における両種の障は『起信論』の煩悩礙の部類の中に完全に含まれるが、『起信論』の智礙は新しい解釈の部類を形成する。

「顕了門」の二障を解明し、分析するため、元暁は『瑜 伽論』と他の標準的な唯識系の諸経論に幅広く依存した。『起信論』の二礙に 関する教義上の枠組みを定義するため、元暁は全く異なった系統の経論を使用 する。ここで、彼は『勝鬘経』、『本業経』、『宝性論』など如来蔵の伝統を 代表する経論の議論を取り入れる。これらの経と論は「四住地」と「五住地」 (vasabhūmi, 様々な種類 の迷いと苦悩の潜在している拠り所、または種子) に関して無知と苦悩との関 係を定義する文献によって結びつけられる。元暁のこれらの如来蔵系の難解で 複雑な分類の調査と分析は、いつも通り驚くほど詳しく徹底的である。そして、 元暁は結局、如来蔵系の枠組みを唯識説の枠組みに合わせる。


3. 慧遠の二礙説

元暁と慧遠

筆者は、元暁の『二障義』に関するいかなる学術研究においても以下の点が言及された例を知らないが、元暁の「隠密門」(『起信論』)に関する整理された二礙説(『勝鬘経』、『宝性論』などに見られた四、五住地の枠組みに基づいている) は、慧遠の『起信論義疏』に含まれた二礙に関する慧遠の記述に大部分基づくと思われる。これは、元暁が慧遠の随筆を盗作したということを意味しない。慧遠の注釈が元暁の二礙の分析における参照の要点であることは明確であるが、元暁は慧遠の分析を遥かに超えているので、我々は元暁が不誠実であったと言えない。

しかしながら、慧遠の二礙に関する扱いは侮りがたい。筆者のこれまでの二障の研究によれば、慧遠の注釈は元暁を除いては、他に引けを取らない徹底した著作であると評価できる。勿論、元暁は、慧遠の約1世紀後に生存したので、重要な歴史的な利点をもっていた。玄奘はその間の一世紀にイ ン ド から戻り、新たに多くの唯識系経論を翻訳した。そのうち、最も重要な文献は『瑜伽論』であった。

慧遠の二礙の処理

慧遠が彼の『起信論』の注釈中で、二礙の解説を比較的重要に扱ったことは、明白である。注釈全体の長さと比べ、二障に関する慧遠の説明は不均衡に長い。(僅かな3行の文章の解説の為に大正蔵の25ペ ー ジ のうちの3ペ ー ジ を利用する)。 ( (T 1843.44.188c1-191c1) )

慧遠は二礙を3レ ベ ル の深さに従って分類する。その3レ ベ ル 全てが四、五住地の枠組みを通して説明される。

  1. 最初の解釈のレ ベ ル (最も理解しやすい)では、四住煩惱が直接煩悩礙に相当していると説明しており、無明住地が直接智礙に相当していることが理解できる。
  2. 第2解釈のレ ベ ル では、すべての五住地の本質(住地性)は煩悩礙をまとめて構成する。一方、異なった現象を適切に認識できないこと(事中無知)が智礙を構成する。この解釈では、無明は2種類に区別される: 一つは原則に関する混乱(迷理無明); もう一つは異なった現象に関する混乱(事中無知)である。
  3. 第3解釈レ ベ ル では、煩悩礙が現象の区別に関して、認識の不明瞭化と同様に、五住地の本質を含んでいると理解される。 智礙はただ区別する知恵の機能であることと理解される。

図は以下のようである:

煩惱障 智障
1 四住煩惱 無明住地
2 五住性緖 + 迷理無明 事中無知
3 五住性 + 事無知 + 迷理無明 分別緣智
3

解釈分析のために、慧遠は、これらの3つの部類を副分類に分割し、それを最大3、又は4つのレ ベ ル に分配する。全ての領域において利用される4つの主なト ッ プ レ ベ ル のカ テ ゴ リ ー は次の通りである: (1) 定障相; (2) 釈障名; (3) 明断処, (4) 対障辨脱. 4 慧遠の二礙の解説における重要点は、『瑜伽論』系の経論で見られるように、正統的な唯識説における二障説の枠組みが完全に欠けていることである。つまり、所知障から派生すると煩悩障を明確に定義する説明、そして誤った我執に基づく煩悩障、誤った法執から得られる所知障に関する説明が全く存在しない。

そのかわりに、慧遠は『勝鬘経』、『地論』、『本業経』などに見られるように唯一五住地の主義に基づく二礙を説いている。これらの如来蔵系の経論で説明された五住地は現行煩悩(起煩悩)を発生する5点の基本的な拠り所として理解できる。言い換えれば、それらは二礙の潜在的な局面であり、唯識における種子(bīja)のような概念に相当している。この説はまず、基本的な四住地と言うセ ッ ト から始まる。 それらは以下の通りである。

  1. 見一切住地 (三界における万物に関する間違われた見方の住地)。
  2. 欲愛住地 (欲界における対象への執着の住地)。
  3. 色愛住地 (色界における対象への執着の住地)。
  4. 有愛住地 (無色界における対象への執着の住地)。

第五の住地は無明住地 (avidyā-vasabhūmi)である。 これは、無明の潜在している局面であり、先天的で深く意識に埋め込まれたものを示す。取り除くのが非常に難しく、そして他の4つの住地の基礎として機能する。したがって、それは煩悩を生み出す基礎である。無明住地が前の4つの住地に加えられるとき、五住地と呼ばれる。

このような如来蔵系の経論を読むとき、我執や法執、六(根本)煩悩と随煩悩の発生などのような、二障について説明する為の標準となる唯識述語を見つけることは不可能である。そして、逆に、『瑜伽論』などは、五住地の箇所で二障については議論がなされることは決してない。 したがって、この二障という主題は、イ ン ド 仏教と東ア ジ ア 仏教の救済論が、ともに八識説、熏習、異熟などのように同じ基本的なパ ラ ダ イ ム の幾つかを使用しているにもかかわらず、枝分かれしていった過程を調査するうえで興味深い視点を提供する。

慧遠の注釈における最初のレ ベ ル の二礙説は、標準の唯識の二障説に一致できる。しかし、我執や法執のような唯識説の主な術語については、全く存在しない。唯識説の欠落は、単に、『瑜伽論』や他の影響のある唯識系経論の大部分が、当時はまだ玄奘によって中国に持ち帰り翻訳されていなかった為、結果的に利用可能でなかったという事実に基づくことは十分ありうる。 もちろん、元暁はこれらのテ キ ス ト を全部利用できた。我々は、慧遠は菩提留支訳の『解深密経』を利用することが可能であったかもしれないと推測できる。だが、『解深密経』は二障に関する多少の議論を含んでいるものの、比較的早い時期に書かれたため、標準となる唯識の二障説はまだ完成していない。最も重要な点としては、法執・ 所知障と我執・ 煩悩障へのリ ン ク 、関連づけがまだ存在していないのである。

慧遠の二礙の3つのレ ベ ル の解釈に戻る。最初の部類で見られた簡単な煩悩・ 知的な区別は、標準的な唯識説で容易に関連付けできる。 したがって、それも元暁が説明した「顕了門」に相当する。5 第2解釈のレ ベ ル に関して、慧遠は、これが、『起信論』に関連しているものであると直接示す。したがって、これは、元暁が「隠密門」として分類する部類である。第3レ ベ ル の解釈は、元暁によって特に区別された部類ではないので、興味深い。これは煩悩礙が、根本無明、および適切に区別できないのと同様に、すべての五住地によって包括されるという説である。智礙は縁起智だけから成る。認識的局面における重要点は再び高められる。智礙がさらに高いレ ベ ル の修行に関連しているように— 高度な菩薩によって役立たされる正しい知恵。それにもかかわらず、これは如来蔵系テ キ ス ト において、心のいかなる動きも仏陀の完全な悟りへの障害であるという基本的な観点に同意するように思われる。したがって、元暁が彼の「隠蜜門」を創設したのは、慧遠の第2と第3レ ベ ル の両方の解釈を含める意図であったかもしれない。6


4. その後の東ア ジ ア の歴史の二障・ 二礙

歴史的には、東ア ジ ア では二障の如来蔵的解釈は、如来蔵説によって影響された唯識思想と共に、初期には優位を占めていたように思われる。唯識系の二障説は、玄奘の翻訳の公表後に初めて有力になる。中国の法相宗の終焉の後、中国と韓国では二障の議論に関しては、経典の区別がかなり不明確な解釈が標準になる。例えば、『円覚経』の二障の枠組みは両方の解釈から断片を選択している。 しかし、同経は、以前は見られなかった非常に認識的な局面をもっぱら強調している。18世紀の韓国では、最訥(1717-1790)が彼の『十本經論二障體説』゙7 を書いた際、引用し10冊のテ キ ス ト のうち9冊までが如来蔵/華厳系の経論である。唯一の引用された法相系の論は『成唯識論』である。そして、印度の原典からの引用は無い。一方、日本の法相宗では、中国の法相の玄奘/基の二障の視点が標準になった。この標準化は、主として、『成唯識論』および『観心覚夢鈔』など日本で派生したテ キ ス ト の強い影響力に基づくものであった。


Notes

1. 瑜伽論の引用は T 1579:30.645c10-11による; 元曉の引用は韓國佛教全書 HBJ 1.809b13による。 [back]

2. "The Yogācāra Two Hindrances and their East Asian Transformations," Journal of the International Association of Buddhist Studies 2004-1.[back]

3. T 1843.44.188c4-9[back]

4. これと比較する為に、元暁の『二障義』は6つのセ ク シ ョ ン で構成される。(1) 釈名義; (2) 出体相; (3) 弁功能; (4) 摂諸門; (5) 明治断; (6) 惣決択である。慧遠と元暁の部類において重複する領域が見られることから、我々は元暁が先学から学んだと推測させられる。 [back]

5. この部類に関する慧遠の(また、『勝鬘経』に見られる)説明は、二乗の修行者と菩薩を唯識説で見られるものとの類似的な位置(二障を征服して、排除する彼らの能力に関する)に置く。[back]

6. この種類の解釈は『円覚経』に見られる。 その経は、最も深遠な悟りの経験さえ、修行者がそれらの悟りに執着すると智礙になると宣言する。[back]

7. 韓国仏教全書10.46-47.[back]

Copyright © Charles Muller— 2005